第11回『文京を歩くかい』〜〜炎天下を歩く〜〜

平成25年7月27日(土)第11回『文京を歩くかい』が実行されました。真夏のど真ん中と言う事もあり、多分参加は少ないだろうと推察されましたが、「歩く」ことに興味ある私は、世間がやれ「熱中症」だとか「冷房病」だとか騒いでいるなら、逆にわざと炎天下を歩いてダクダクと汗をかいたらスッキリするかも?と7月末実施を企画したのです。 つまり「意地悪な企画」だったのです。
前回の10回目が第1回目の再現をしたので、今回も第2回目と同じコースを歩くことで次のように設定しました。

<午前コース> JR大塚駅 9:00AM集合

  大塚駅前→ 大塚公園→ 占春園→ 極楽水跡→ 白山神社→ 円乗寺→ 海蔵寺→

  夏目漱石旧居跡→ 根津権現→ 夢境庵(蕎麦処)

<午後コース> 地下鉄 千代田線「根津」駅 13:30

  藍染川に沿って→ 不忍池→ 旧岩崎邸→ 湯島天神→ 妻恋神社→ 銭湯「燕湯」

  →打上式(懇親会:「おかってや」)

今回も自分の体力に合わせて参加出来るように午前/午後の2コースにしたのですが、やはり真夏のど真ん中でのウオーキングとあって参加者は少なくメールでの参加は11人だったのですが、当日集まったのは結局8人に減って、すべてが男性でした。また<午後のコース>に1名の参加者がおられたのですが、私のミスで集合時間を13:00と伝えてしましい、会うことが出来ずにご迷惑をお掛けしてしまいました。

さて、それではコースに沿って状況報告をして参りましょう。

JR大塚駅前からの出発です。集まった8人の内7名は皆さん「文京を歩くかい」には何度か参加されていて「歩き」には自信をお持ちの方々で頼もしい。皆さんの紹介と挨拶は涼しい「大塚公園」の木々の下でやろうと言う事で「新大塚」方面に向け早速歩き出しましたが、朝9時台であるのに、もうすでに強い太陽光線を感じてこの先が思いやられます。それでも大塚公園の中に入ると大木の下の日陰は涼しくて気持ちがいいです。ここで皆さんの紹介とトイレ休憩で10分ほど休みました。

次は大塚公園から20分ほど歩いて「教育の森公園」に入りますが、目的地はこの中にある「占春園」です。そもそも江戸時代、徳川光圀の弟、松平頼元が万治2年(1659年)に屋敷を構えた敷地で、明治に入って東京高等師範学校(現在の筑波大学)が移ってきて、現在では筑波大学東京キャンバスと筑波大学付属小学校になっており、余ったところを教育の森公園として、その公園の中に昔の庭園の一部をそのまま残した占春園が有るようです。しかし占春園は筑波大学付属小学校の自然観察
園として管理されているそうで、鬱蒼と生えた草木は、自然のままで東京のど真ん中にこんな公園が残されているのかと驚かされます。自然公園としての穴場かも知れません。しかし小学校の管理下ということで、整備費用にも限界があるせいか、庭園内の池の水も濁っているようで、「自然のままにして手を入れてない」ようなので雑然としているのがチョット残念な気もしますが。今回の参加者の内で短パン・スタイルの方が2名居られましたが、やぶ蚊の餌食になられてようで、両足にボツボツと赤い斑点を作られていました。相当に痒いらしく気の毒な思いをさせてしまいました。
占春園を出て「窪町東公園」を下って千川通りを「共同印刷」の本社に向かって歩きます。桜並木で有名な「播磨坂」を少し上ると左手に高層マンション「小石川パークタワー」が現れますが、その脇の木々の茂っている小さな公園が「極楽水」で昔はここから水が湧き出していたのでしょう。脇に祠があってそれが小石川七福神の「弁財天」だそうです。"極楽の水"とは余りに縁起の良さそうな名前だったので、皆さんで記念写真を撮りました。

この後は共同印刷ビルの前の交差点を渡り「小石川植物園」の前を通過して脇の「御殿

坂」を上ります。この道をまっすぐ行きますと白山通りに出てそれを突っ切って「白山神社」の階段を上ります。神社本殿の脇の桜の木の下で10分ほどの休憩を取りました。

         <白山神社>                   <お七の墓>

次は戻るように白山下に出て「円乗寺」に向かいます。この寺は八百屋お七の墓がある寺として有名です。お七の生家は駒込片町で有数の八百屋でした。1682年に近くの大円寺から出火しお七の家も焼けてしまい、菩提寺であったこの円乗寺に避難して来ました。その避難生活の期間中にお七は円乗寺の小姓に恋してしまいました。やがて家は再建され戻りましたが、お七は小姓に会いたい一心で、「きっと火事を起こせばまた会える」と思い込み付け火をしてしまいます。そしてお七は放火の大罪で捕えられ、翌1683年に火あぶりの刑に処せられたのです。現在墓は3つ立っていますが、中央は住職が供養の為に、右側は寛政時代に歌舞伎役者の岩井半四郎がお七を演じた縁で、そして左側が近所の人々が270回忌法要の為にそれぞれ建てたものだそうです。
それではその大火の火元となった「大円寺」が次の目的地です。朱塗りの寺門を入ると正面に八百屋お七を供養する為に享保4年(1719年)に建てられたと言われる「ほうろく(焙烙)地蔵」があり左奥に本堂があります。お七の罪業を救うために、熱した焙烙を頭にかぶり、お地蔵さま自ら焦熱の苦しみを受けられているのだと言われています。従ってこのお地蔵さんは首から上の病気平癒には霊験あらたかとされ、焙烙に患部や願い事を墨で書いて供え、治ったらその御礼にまた焙烙を納めます。従ってこのお地蔵さんの前には沢山の焙烙が積
み重ねられています。また大円寺には高島秋帆のお墓があります。秋帆は近世砲術の祖といわれ、天保11年(1840年)幕府に様式砲術の採用を建議して、翌年「徳丸が原」にて砲術の訓練をしたそうです。この徳丸が原は現在の「高島平」付近だそうで、この地名“高島平”も高島秋帆の名前から来ているのだそうです。
この後は本郷通り(国道17号線)を横切り寺町に入ります。そして「身禄行者(みりょくぎょうじゃ)」のお墓がある「海蔵寺」に立ち寄りました。この身禄行者(1670〜1733)とは富士講を流行らせた人物で、誠の心をもって浅間大菩薩に感謝すれば安定した生活ができるという身禄の教えが庶民に受け大流行となりました。したがい身禄の墓は富士山をかたどった溶岩の上に墓碑が立っています。この後「郁分館高校」の脇を抜ける細道を通って「夏目漱石旧居跡」(ねこの館)に出ます。余りの太陽光の強さに塀の上のネコも辛そうにして居りました(?)。

                            <身禄行者の墓と富士山の溶岩>

時間も12時ちょいと前になっていましたので、さあ、いよいよ待ちに待った昼食です。

日本医大の正面玄関の前にある、蕎麦処「夢境庵」にて皆さんで「せいろ蕎麦」を楽しみました。何ともうビールを注文しているではありませんか。冷房の効いた天国でおよそ1時間の休憩でした。

午後は「根津神社」からのスタート。午後の部の集合場所/時間を地下鉄「根津駅」/13:30と伝えていたと勘違いしていたので(実際に連絡していたのは13:00)まだ時間が充分あると判断して、根津神社でお昼の休憩(右の写真)、そして時間調整の為に「藍染川沿い」の路地を歩き、途中のかわいらしい喫茶店の前に「氷水」の看板があったので、皆さん誘われるように中に入りましたが、何とテークアウト用の氷水も有る由。これは歩いている我々には好都合と皆さんで購入しそれを食べ食べ、焼け付く道を「不忍池」方向に向って歩き始めると、参加者の中の"坂の博士"が、「この脇を入
りましょう。私が気に入っている坂で、ここからあの道角にある「ヒマラヤ杉」の所に出ますよ」とアドバイスがあり早速その坂道(左の写真)を登る事にしました。この付近も寺町で四方がお寺で囲まれていますが、突き当たると右手にあの「ヒマラヤ杉」が見えて来ました。先ほどの喫茶店で手に入れたカタログによれば、このヒマラヤ杉のある地域の一画が今年の3月に土地の売却がなされ、谷中のシンボルとして住民から愛されてきた大木が伐り取られる恐れが有るとして、地域の住民が町を守ろうと署名活動が始まっているそうです。このヒマラヤ杉の脇から細道を抜けて行くと言問通りに出ました。

        <細い露地にて>

     <三叉路の角にヒマラヤ杉>

言問通りを突っ切り直進して行く途中で不忍池の手前にある水月ホテル内の「鴎外荘」に立ち寄りました。このホテルの敷地内に森鴎外の旧居をそのままに保存していて、鴎外が「舞姫」を執筆した部屋や庭園をみる事ができます。今回みんなでこの庭園の池の周りをぐるりと一周して涼を取りました。この後ホテルを出て不忍池の中にある「弁財天」を通り池をぐるりと廻り、ここで皆さんはまたまた時間調整為に一旦休憩を取ります。ここで私は午後の部参加の人をピックアップに地下鉄・千代田線「根津」駅に向かうのですが、すでに述べたように30分の勘違いから残念ながら会うことが出来ませんでした。私の思い込みミスさえ無ければ皆さんに多大なる迷惑を掛けずに済んだのにと深く反省しております。
さてさて、次は「旧岩崎邸庭園」に向います。ここで30分ほど費やして皆さんに館内見学をして頂きました。この後は「湯島天神」の女坂を上がって境内に出て本郷台地の南端を歩きます。暫く行くと左手に急な坂道「実盛坂」が現れます。この坂の上に立つと、本郷台地から目の下に湯島の町が見渡せます。脇に立っている説明板によると、「この実盛坂の下は長井庄といわれ、昔 斉藤別当実盛の居住の地で平家方に味方していたが、源氏の木曽義仲と加賀での合戦で勇ましく戦ったが、手塚太郎光盛に討たれた。湯島にある“実盛塚”や“首洗い井戸”の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる」と書かれてました。

       <旧岩崎邸庭園>                 <湯島天神にて>

そのまま本郷台地を南に向かい、「蔵前橋通り」に出る手前のT字路を左に入るとすぐ左側にラブホテルの合い間に張り付くように「妻恋神社」が建っています。この神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)と妃の「弟橘姫(おとたちばなひめ)」を祀っているというから何とも驚きです。史書によれば、『日本武尊が東征のときに三浦半島から房総に渡る際に大暴風に会い姫が身を海に投じて海神を鎮め尊の一行を救ったという。その途中湯島の地に滞在したので、郷民が尊の姫を慕われる心を汲んで、尊と姫を祀った』のだそうです。

妻恋神社の前の「妻恋坂」を下って外神田の町に出ると、さあここから御徒町にある銭湯「燕湯」に直行です。皆さんいよいよ汗が流せるとあって、急に元気が出てきた様子でした。私も銭湯に入るのは何年ぶりでしょうか?確か学生時代でしょうから今から40年以上も前の事でしょう。午後4時過ぎの銭湯は私達8人で急に混雑になり、常連のお各さまは何事が起きたのかとビックリされたことでしょう。湯船の上の絵はきっと定番の富士山だろうと予想していたのですが、今回は「黒部渓谷」の絵でした。

     <妻恋神社>

銭湯で汗を流した後は、いよいよ近場の居酒屋「おかってや」にて打上式としての宴を楽しみました。腹いっぱい飲んで食べて一人3千円弱でしたので皆さん大満足でした。皆さんと散会したのは午後8時を少し廻っておりました。本当にご苦労様でした。

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